折口信夫の信仰起源説(P22.11〜P24.7)
吉本は、折口説に「文学。芸術が人間の意識の自己表現に発したという面を、一貫して立証している」ところを評価している。
文学発生
○ 人間の意識の自己表出された態様
○ ある一つの種族間の意識体験は、共通の意識体験を抽出してゆく。
○ 人(みこ)神に憑いて、種族の共通の意識体験を表現する。
折口信夫の抒情詩の起源(P24.8〜P25.6)
呪言(よごと)の中のことばが、叙事詩(ものがたり)の抒情部分(うた)を発生させた。
つまり、抒情部分(うた)は、呪言(よごと)を通して、叙事詩(ものがたり)より脱落することによって宮廷詩等の独立した形態となったのである。
上述に関する吉本の見解(P25.7〜P26.1)
@ 古代人の意識の自己表出が神の口として、叙事詩として語られた。
A 叙事詩の物語性が、(さらに)自発的な表出力の面で抽出されたところに抒情詩が生まれた。
ここに金太郎飴の切り口(断面)をみることができる。
その層面こそが、詩としての詩の本質を示唆するものである。
金太郎飴の層面、それは「意識の自発的な表出性」である。
折口信夫の「万葉集の解題」より叙景詩について(P26.1〜P26.終)
神武天皇の后いすけより媛が天皇崩御の後作られた二首は、真の叙景詩ではない。
昔の人は、大体の気分があるのみで、何を歌はうというはっきりした予定が、初めからあるのではない。でたらめの序歌によって、自分の思想をまとめていった。即、神の告げと同様であった。
つまり、折口は、この時代の叙景詩は、叙事詩と同じようなやり方で、叙景詩を作っていったと見ているようである。
上記(叙景詩)に関する吉本の見解(P27.1〜P28.12)
@ 古代人の叙景では、対象は選ばれるよりも眼にふれた手近なものがうたわれ、うたわれながら感情をひき出した。
A このような手近な景物をうたうことが、宗教的自己疎外に似たものであった。
(シュールレアリズムと同じような忘我の状態が触目の景色によって表出され、しだいに、芸術的な意識の自己表出となって結晶し、おわる。)
折口説のとおり、古代の祭式が劇をうみ詩をうみ、音楽をうみ舞踏をうんだことは、疑う余地はない。
ただ、吉本は問題点として、宗教的な表現と芸術的な表現が二重にうつされねばならないところを、折口説が、信仰起源を固定化し、普遍化しすぎていることを指摘する。吉本は、神憑りがないばあいでも、意識の状態としては神憑りと共通性をもつ芸術的な表出を可能ならしめる、とする。そして、信仰と詩とは分離し、詩としての詩が発生する、としている。つまり、折口学説を信仰に封じこめないで、意識の自己表現として普遍化すれば、画期的なひとつの学説とすることができる、とする。
そうすることによって、吉本はヴァレリー、ハイデガー、中村光夫の各説(メモ2)にも共通する詩の本性(詩が意識の自己表現としての面で純化されるという性質)を見いだそうとしている。